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夢や希望や理想を抱いた人間が、現実の壁にぶつかった時にどうなるか? 弱い人間は自滅し、強い人間は開き直って平然と生きる。 映画の最後の場面で 踊りに参加してる奴らは間違いなく強い人間 失う物がない奴、 失う物がなくなってしまった奴は 間違いなく 強い! 黒澤監督の「羅生門」は現実の人間のあり方、 この「どん底」は現実の人間の生き方を示唆している
−−江戸時代の馬鹿囃子のなかに、暗い希望のない状況における庶民の生き方のひとつの伝統を黒沢明は見た。しかし、彼自身はそれに共感しているわけではなく、むしろ、腹だたしいことだと感じている。そこから生じるのがいらだたしさの笑いであろう。そして、そのいらだたしさのなかには、『生きものの記録』で思想的に袋小路に迷いこんでしまって以来の、黒沢明自身の思想的目標の喪失ということがあるのではないか(佐藤忠男著『黒沢明の世界』(三一書房・1969年)222ページより)−− この映画で印象的だったのは、映画の終はり近くで歌はれる馬鹿囃子である。原作の「明けても暮れても牢屋は暗い」と言ふ歌が、この翻案作品では、江戸時代の馬鹿囃子に代はって居る訳だが、この場面は、田中春男、渡辺篤、藤田山、藤木悠、の四人で演じられる、なかなか印象的な場面であった。この場面を見ると、黒沢作品に登場する俳優にはパントマイム的な演技の達人が多かった事を強く感じさせられるが、それは、戦前からの下町の演芸や映画の伝統の遺産の様である。 黒沢監督の庶民の描き方には、例えば『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』の様に、やや嘲笑的な笑ひが感じられる場合と、『赤ひげ』の様に、庶民の善良さが強く押し出される場面が有るが、この作品は前者だろうか。愛すべき小品だと思ふ。 (西岡昌紀・内科医)
1957年発表の白黒映画。ロシアの作家ゴーリキーの同名の戯曲が原作。原作の複雑な男女関係は忠実に移植され、物語の中核となっているが、まさにどん底の日々の暮らしを過ごす男女の希望と悲嘆が交錯する群像劇と捉えるべきだろう。黒澤監督が戯曲を映画化する場合、全く原作が戯曲であることを忘れさせる作品(蜘蛛巣城等)もあるが、本作は舞台劇のように、長屋(というかちょっと大型の小屋)の中であれ、戸外であれ、狭い空間で物語は展開する。そして、俳優たちは長屋のおんぼろの戸から出入りを繰り返す。この戸は外=希望、貧困からの脱出と内=あきらめの境界を象徴する。物語の進行とともに実際に外に出て行く人と内に残る人に分かれていくが、長屋の人々に今の境遇から脱出する=外に出ることを勧める、昔は悪いこともしたらしい旅の巡礼(?)の老人・嘉平役の左ト全がいい。なるほど、何かといえばどっかへ行けと言い、そのくせ、そこがどこか教えないのかもしれないが、長屋の人たちの嘘かも知れない話を聞いてやり、ポジティブな方向に考えるヒントを与える。私にとって本作は左ト全が一番印象に残る映画だ。