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宮台思想を理解するには有用(社会を理解するのに有用か否かは保留) |
対話者の一人・北田暁大の前書きによれば、彼を刺客として送り込み、宮台真司を不意打ちしてボコろうというのが版元社長の企みだったらしい。しかし、両者の対立点は浮き彫りになったものの、北田が低姿勢に終始して結局は宮台節を拝聴してしまう。「宮台真司を抜きにして、現代日本を語ることはできない」(p11)って…私も宮台先生の本には結構つきあってるけど、さすがにそれは言いすぎじゃないか。
ただ、最近の宮台対談本は彼の知名度に寄りかかった散漫でユルい出来のものが多かったが、本書は(少なくとも北田側が)ゲラに大幅な加筆・修正を施したらしく、なかなか緊密でテーマの一貫性を感じさせる。その点では、読ませる内容となっている。
北田側からの疑義の最大のポイントは、やはり宮台の「天皇」「亜細亜主義」へのコミットメント。で、宮台の応答は、初期ギリシア的な主意主義(=右翼)に回帰し、理性・知のオブセッションに抗うアイロニズムを貫くというもの。そこでパンピー向けに持ち出される標語が「参入離脱の自由」なのだが、何だかドンファンの教え(カスタネダ)を思い出してしまった。
しかし北田も前書きで仄めかしているように、強迫的と言えば宮台ほど強迫的な人はいないんじゃないか。氏は戦略性を標榜し、「事後的に『もといた場所には「あえて」いたのだ』『もといた場所はオブセッシブだ』と語る」ことで相対化(アイロニー)の連鎖を形成するとおっしゃるが、私はバッハの「無限に上昇するカノン」を想起しました。
で、私が関心を抱くのは、宮台氏の右翼の本義の先にまだヴァジラヤーナがあるのかどうか。pp431〜433辺りではブチ切れて、三島に仮託しながら「面白けりゃ、何でもいいんだよ」「要は、何もかもつまんねえんだよ」と表出しておられますが、「天皇も亜細亜主義も右翼も主意主義もシャレでした、本当は神の愛です」なんて、まさか言いっこなしですよ。 |
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