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「聴く」ことを哲学的行為として定義することにより、著者は私達一人一人を哲学する主体へと導く |
「哲学者は受け止める側のことを考えずにしゃべりすぎてきたのではないか」と指摘する著者は、「聴く」ことを哲学的行為として定義し、聴くことが聴く者の自己を創成する上でも大きな意味を持っていることを指摘することにより、言外に読者一人一人が聴くことを通じ哲学的行為の主体となるよう誘う。「聴く」ことについての哲学的視点からの意味を提示し、私たち一人一人が他者との関係を構築する際のヒントを与えるとともに、哲学的行為を研究者の専有物から万人に開放した画期的な著作。しかし、「<なんの留保もなしに「苦しむひと」がいるというただそれだけの理由で他者のもとにいる>p.245」ホスピタリティという関係を他者と結んでいくようわれわれを促すものは何か。クリスチャンにとっては、ヘンリー・ナウエンが一つの回答を示している。「全く力なき者として、つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、何も差し出すものがない者になるように召されている・・それはイエスが来られて神の愛を明らかにされた方法・・(イエスの御名で:あめんどうp.29-30)」。ここで提起されている臨床哲学は部分的に向谷地生良先生の「当事者研究」により実践の場に移されていると思われる(安心して絶望できる人生:日本放送出版協会) |
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