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これはもちろん小説です(小説は楽しむもので、信じるものではありません) |
実はプロローグの、「大きな事件があって、人々が放心状態に陥ると、まず必要になるのは薬や食品や水ではありません。毛布や、救助犬や、軍隊でもありません。なにより、言葉なのです」(p11)という一節で躓いてしまった。そうだろうか…
人は「物語」なくして生きられない、と著者は言う(p70)。そして同時代の雑多な言葉の只中に身を置いて「物語」を立ち上げよ、と呼びかける。しかし続いて、「死者の代弁」という旧来の武器に無効宣言が下される。「死者」という言葉の鮮烈さに惑わされてはいけない。要するに、「代弁=表象は不可能」と言っているのだ。
だが表象を禁じられ、絶句しつつ語ることが、いかに可能か? 「<意味>では(中略)解消しえぬ『意識の奥底にあるもの』を救出する」(p393)のは<価値=無意味>だ、と著者は言う。「小説」という自己言及的<意味>のみを残す小説…
著者はプロローグで、無から生じて無に還るブエンディーア家の歴史を描いたマルケス『百年の孤独』を、「ニッポン文学」の運命の喩としている。そして自分を、消え去ろうとしている一族の歴史を記述する最後の子に擬す(p22)。他方、文学を人と人がコミュニケートする一手法であり、「器(=言語)」を作り、また壊す一連の行いそのものと定義した上で(p39)、瓦礫のみが残った今こそ、一からはじめる条件が揃っている、とも(p42)。
しかし小説を<無意味>にまで追い詰めておいて、本当にその次があるのだろうか? このような強迫的な「物語」は、最初に掲げた「はじめに言葉ありき」という前提の下でしか成立しない、幻のようなものではないだろうか? まるで自分の周囲の地面に円を描いた子どもが、その円に呪縛されて立ち尽くしているような… |
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