とても良い / 口コミ件数 : 7件
価格 : 700 円
多くの人々が水俣病という公害があったことを学校の社会の授業などで勉強し、知識としては知っているでしょう。でも、「水俣病=公害」という理解の仕方がいかに表層的かを本書を読んで痛感するのではないでしょうか。つまり、本書を読めば、水俣病とは、本当はどういった状態であったのかをイメージすることができるようになるのです。水俣病にかかって死んでいく人々の軌跡や、水俣病という恐怖が村を飲み込んでしまう恐怖が書かれています。著者の石牟礼道子さんは、水俣のすぐ近くに住まれていたようで、実際に水俣に赴き、聞き書きをするのですが、「言葉として聞き取ることができないもの」をも自らの言葉として汲み取り、表現しています。それが単なる創作とはまったく異なる切実さを持って作品を支配しています。タイトルにも挙げたように若い人こそ読むべきかもしれません。かくいうワタシも80年代生まれで、水俣病のことなぞ何も知っていなかったことを思い知ったのですから。
この本の前に、水俣病をめぐる社会の動きをつかんでおくほうがいい。岩波新書が 2冊出ているので、それを読めばい。そこで知ったのは、あまりに酷い行政、司法、 のあり方とともに、いまだに、まさに同じく被害を受ける可能性も高かった、であるから こそなのか、行われている、近隣の住民による差別の存在であった。村落共同体を、 この病気が破壊したが、その影響は、とてつもなく大きく、かつての仲間に対する偏見 排除を招来した。私はここで立ち止まってしまった。やはり、村八分というように、共同 体は、外に向かっては差別的に閉じられ、内に向かっては同質性を要求する、葬られる べきものなのか、と。個々人が切り離されている今、共同体的なものを模索する動きがある が、それは誤りなのだろうか。本書は、村落共同体をはじめあらゆる集団(医師、役人 など)の本質を、フィクションでありながらむしろそれゆえに、生々しく炙りだしてお り、読み手がそれは本質ではない、と答えることは難しい。一見水俣を巡るもの達を描いた ノンフィクションのように読めるのだが、そうではなく、優れて文学的な筆者の、逃れられ ない思想、というか位置、姿勢をさらけ出して書いた、無防備な、それゆえ重い作品だ。 筆者の思いに向かって没入して読む、私にはそれしかできなかった。
ここに云う「苦海」は、すなわち水俣湾のこと。1960年代の高度成長の中で公害の犠牲となり、しかし長年無視されてきた世界である。そこでは「命の価値」は金銭に換算され、しかも「死」をさらに葬り去ることが通例になっていた。それを綴った本文は著者による聞き書きの体裁を取っているが、実は全て創作だという。だがそれは単なる創作ではなく、熊本弁で綴られた言葉の全てが「語られぬ言葉」の代弁となっている。 ところで、第3章「ゆき女きき書き」の最後にこんな表現がある。「うちゃ『ぼんのう』の深かけん、もう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる」たった一言だが、この一言に「なぜ死ななければならないのか」という、水俣病の犠牲になり、不条理を押し付けられた全ての人々の想いが集約されているような気がする。
チッソが海に流した有機水銀に体を蝕まれ、破壊され、命を奪われたものたちの声を石牟礼道子さんが言葉に刻んでいます。患者となってしまった漁民たちが発する言葉は、生命を軽視し利益を優先する企業倫理に身を染め、かつて持っていたはずの心の世界ー命への底抜けの優しさと信頼ーを失ってしまった日本人の心をえぐります。この本に詰まっている言葉に何度も触れて、失ってしまったものを取り戻したい。たとえ、激痛に襲われたとしてもー
『苦海浄土』を読んだのは,第1回大宅壮一ノンフィクション受賞作品として「文藝春秋」に一部が載ったときでした。1970年ですからもう40年近くも前のことです。石牟礼さんは受賞を辞退していましたが,雑誌に一部が紹介されたのでした。私は大学に入学したばかりでした。第3章「ゆき女きき書」は,かなりの部分が坂上ゆきの水俣弁で書かれた章ですが,石牟礼さんが聞き取った言葉の迫力は尋常ではありませんでした。私はさっそく本を買い,読みました。庶民の暮らしが,その日々の営みがどれほど貴重なものであるかを、感じました。首相だの大統領だのといった人々とは別に,偉い人々がちゃんと巷にいることに感動しました。悲惨な水俣病を描いてはいますが,美しく幻想的な傑作です。それ以後ずっと,この本は私にとってもっとも大切な本のひとつです。高校生くらいの若い人にぜひ読んで欲しい本です。