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トクヴィルは、平等と自由に関する共通認識を深める機会を提供する |
「はじめに」で、著者は本書で論じることの一つが、“近代社会の本質を読み解くグランド・セオリーが「デモクラシー」という概念であり、その中心は「諸条件の平等」であること”と述べる。「平等」と言えば「自由」が呼応するものだが、「人民主権」と「平等な自由」を論じる節で、“しかし、政治的な平等という場合において重要なのは、人々が平等に自由になるか、あるいは平等に隷属するか、という二つの選択肢があるということである。イギリス系のアメリカ人は幸福にも、前者を選ぶことができた。(中略)より具体的に言うならば、イギリス系のアメリカ人は、各個人が等しく権利の担い手であることを受け入れた。そして、各人が自分の利害の唯一最善の判定者であることを承認した上で、他の個人と共有する利害については、相互に義務を負うことを承諾した。”(p.104)と述べる。
この表現は難しいが、言わんとすることは次のようになると考える。
人間が平等に自由であればどうなるであろうか?典型的な例として、親と子供が平等で自由となり、先生と生徒が平等で自由になる場合を考えてみる。平等に自由であれば、親と子供の間に存在する権利と義務が意味を持たなくなる。同様に先生と生徒に存在する権利と義務が意味を持たなくなる。
なぜ、そうなるのか?本来、親には子供を躾る権利と育てる義務があり、子供には育ててもらう権利と親を敬う義務がある。先生には生徒を躾る権利と生徒の能力を見いだす義務があり、生徒には自分の能力を伸ばす権利と先生を敬う義務がある。しかし、平等に自由であることは、こうした権利と義務の存在を無意味にする可能性が高い。
その結果、何が起きるか?平等に自由であることは秩序を破壊する。親と子供の間で義務と権利が認められなくなり、先生と生徒の間で義務と権利が認められなくなるということは、家庭や学校が無法地帯となることを意味する。つまり、親と子供の関係はバラバラ。先生と生徒の関係もバラバラ。そこには「礼儀ある規律」が生まれない。
トクヴィルの著作は、道徳的な意味の「秩序と規律」を保つ「平等と自由」を深く理解する機会を提供するに違いない。
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