とても良い / 口コミ件数 : 37件
価格 : 735 円
民俗学者である宮本さんの作品には、じつは以前から関心があったのだけど、じっくり読んだのは今回が初めて。ぼくが生まれた1981年、宮本さんは亡くなっており、この作品ももとは未来社から1960年に刊行された、かなり古い書物。もう50年くらい前だもの。 この『忘れられた日本人』に、ぼくの故郷である恵那が登場して、またまたびっくりするとともに、嬉しくなった。しかもそれは、こんなくだり… ************************* 後藤:ほんとうにかわりましたのう。夜ばいもこの頃はうわさもきかん。はァ、わしら若い時はええ娘があるときいたらどこまでもいきましたのう。美濃の恵那郡の方まで行きましたで・・・。さァ、三、四里はありましょう。夕はんをすまして山坂こえて行きますのじゃ、ほんとに御苦労なことで…。 わしら若い時ゃ 恵那までかようた 恵那の河原で夜があけた という歌がありますが、ほんとであります。女の家へしのびこうで、まごまごしていると途中で夜があけたもんです。(同書78頁) ************************* 恵那というのは、むかしから美しい娘がいるというので、近隣の村々で有名だったと話は続く。ふむふむ。 宮本さんは、日本中をじぶんの足で旅して、その土地土地で老人に話を聴いて回り、それをもとに日本の民俗・習俗、百姓の一般生活を描きあげた。この『忘れられた日本人』はその代表作で、古老たちの声がぼくらに届けられる。「土佐源氏」という章は、あまりの面白さに発表された当時はフィクションだとうわさされたほどらしい。ひとりのおとこの恋と人生の物語なのだけど、これほど面白い物語にはそうそう出会えない。 むかしの言葉で、ぼくがもう理解できないものも多くありました。もういちどじっくり読み直してみようかなと思います。お薦めです。
名著。とはいえ今の時代、民俗学の勉強をしている人でなければ、著者の名前は知らないのではないでしょうか。民俗学の本を読むのが好きなわたしも、この著者については最近まで知らなかった。購入後も数年は背表紙を眺めているだけでかなり熟成させてしまった。が、ひとたびページを繰ってみると、その面白いこと! 創作ではないか、と疑いをかけられたことがあとがきに書かれているが、なるほどそう疑われるのも無理がないほど面白かったのは、やはり「土佐源氏」の章である。 橋の下でほとんど乞食のようにして暮らす80歳を過ぎた盲目の老人が語る彼の人生が、この章をなしている。アンチヒーローな彼の人生がそれは魅力的なのだ。ばくろう(牛の売り買いをする人)として、社会の底辺に生き、牛と女のことしかなかった人生を語るその語り口。町の名士の奥様(「おかたさま」)との色恋のくだりなどは、大変おすすめだ。おかたさまが亡くなったとき、3日3晩泣き暮らした彼は、それが原因で目がつぶれた、というのだ。「日本昔話」のおとな版、と言ってしまっては、通俗的過ぎるかしら。電車のなかで読んでいて、涙がこぼれて困ったくらいです。 テープレコーダーもなかなか手に入らなかった時代に、夜を徹して老人たちの話に耳を傾け、その語り口まで一心に書き留めた著者の情熱が素晴らしい。
日本が、世界が今ほど狭くない頃、一生を一つの集落で終えるような時もあったわけです。 同じ場所にずっといる方がふつうの時代には、その狭い集落の中でのうまい付き合い方もあったということがよく分かるように書いてあります。嫁姑といった女同士の問題も上手に発散できるようになっていることが書かれており、人間社会での問題はいつの時代も同じだな、と思えます。代々受け継ぐ、というのも自然に行われていたり、年寄りの一言が重く、また年寄りも若い者も自分をわきまえており、暗黙の決まりの中で静かに暮らす姿が目に見えるようです。 目から鱗だったのは、文字を使うことでこれらの暮らしが記録されるようになったことで、今まではうちの中での代々の口伝えであったしきたりなどが、外にも出るようになったと言う所。文字を持つ伝承者(2)の田中誠一翁は農業に学問はいらないと途中で退学させられた、ということだったが、彼の人生を見ていると決して学が必要ないなどとはとは思えず、文字を使える思想を持った人の存在は、彼らの生きた時代の様々なことや昔から伝わることをそうとは意識することなく、記録という形で私たちに残してくれているわけです。 筆者の取材した内容もある土地のある時代の当り前の生活の記録ですが、大変興味深く読むことができ、なかには小説より小説らしいものもある。 そんな事が筆者の等身大で描かれている素敵な本です。
自分の親が生まれ、育った時代、すなわち、ほんの数十年前まで、日本はこんな国だったのか、と衝撃を受けた。月並みな言葉であるが、それは懐かしくも失われつつある、あるいは失われた日本の姿である。時間がゆっくりと流れ、夜が本当の漆黒に支配され、その中で人が、にんげんとしての暮らしを営むなかで、今となっては夢のような物語が紡がれてきたのであろう。圧巻はやはり「土佐源氏」であろう。土佐山中の乞食の語りは、単なる好色な女遍歴物語ではない、男も女も、限られた人生を懸命に生きようとしていた、そのような人間の生の濃密さを感じるのである。
村の寄合のことを書いてある部分がありますね。郷士も百姓もそこではある意味で対等に語り合い、時間をかけて結論を出していく。ときには泊りがけ、弁当持参で語り、あるものはちょっと家に帰ってまた戻り、議論ではなく、ひたすら昔語りを交えて語り合っていく。民主主義ってなんだろう?となんとなく思っているとき、この文章に出会ったのは驚きでした。著者は自分の幼少時のことも書いていて、ある寄合に連れて行かれていたときに声高に語り続ける男が居て、皆が困惑していると古老が一言「足元をみて物をいいなされ」と言うと黙った、という挿話が印象的です。 「土佐源氏」などを読むと、文字通り橋の下に住んでいる盲目の乞食の昔話(ほとんどが女と遊んだ話)の中に、魂が輝く一瞬が切り取られているようなところがあります。どんな人間にも訪れることのあるかもしれない、そのような姿を信じることができたからこそ著者はこのようなフィールドワークを続けることができたのかもしれませんね。おそるべきものです。